
没落した皇室の子孫 伝説の“花美男”
独立軍志願し 33歳で被爆・死亡
ハンサムな容姿、ドラマのような人生に関心爆発
“オルチャン”熱風が全国を沸かせた昨年、“オルチャン王子”として、世間に初めて知られた大韓帝国・義親王(高宗の2番目の息子)の息子イ・ウ公爵が、再び注目を浴びている。
義親王の次男、パク・ヨンヒョの孫娘と結婚

▲京城幼稚園に通っていた頃のイ・ウ公爵(写真提供:ソウル大学博物館)
ソウル大学博物館で、 5月 31日から始まった<最後の皇室 忘れられた大韓帝国>展が、盛況を成していることも、大韓帝国“ロイヤルファミリー”に対する大衆の関心が非常に高まったことを証明している。展示を企画したソウル大学博物館学芸研究官は、「家族単位の観覧客が多いというのが特徴。ドラマ『宮』のせいか、“素敵”とか、“王室があったらカッコイイ”などと話す 10代の観覧客もかなりいる」と述べた。
<最後の皇室、忘れられた大韓帝国>展にも、“オルチャン王子”イ・ウの写真が 1枚、展示されている。伊藤博文によって強制的に日本・東京への留学を強いられた英親王が、 1918年 1月、故国を訪問し京城幼稚園に立ち寄った際、当時幼稚園生だったイ・ウ公爵が前に出て、『梅と鶯』という歌を歌っているシーンだ。
果たして、“オルチャン王子”イ・ウ公爵は、どんな人物だったのか。
ハンサムな上、後世に知られた彼の人生と死はドラマよりも劇的で、ネティズン(ネットユーザー)の間では、「信憑性がない」「真実ではないのでは」という言葉と共に、イ・ウ公爵の存在自体に対する疑問が挙げられたりもした。最後の皇帝・純宗の異母兄弟であるイ・ウ公爵の父・義親王と英親王、コ惠翁主(トッケオンジュ)は、これまで、どんな学問的照明からも脱していたからだ。
しかし、<最後の皇室、忘れられた大韓帝国>展で見ることができるように、イ・ウ公爵は実存した大韓帝国の皇孫である。
高宗と明成皇后の間に純宗が生まれた後(1874)、高宗と貴人・張(チャン)氏の間で義親王が生まれ(1877)、嚴妃が 1897年英親王を、貴人・梁(ヤン)氏が高宗の一人娘・コ惠翁主を 1912年に生んだ。 1907年、病弱な純宗が皇帝に即位し、英親王が皇太弟に指名されると、義親王は本格的に放浪生活をするようになる。序列上、義親王が 20歳も上の異母兄だが、英親王の母である嚴妃のけん制と、成人である義親王よりも幼い英親王を甘く見た、日本に強いられた結果だった。
▲イ・ウ公爵の婚礼服姿(写真提供:国立古宮博物館)
義親王はずっと海外に留まり、半分は外交官として、半分は亡命者として暮らしていたが、彼が義兵養成計画を立てていたことや、中国・上海に脱出しようとして、日本に捕まった事件などが、最近になって知られた。この義親王の意気を受け継いだ者が、 13男 9女の中で 2番目だったイ・ウ公爵だったという。
義親王は、日本の皇族・ 梨本宮方子 (李方子=イ・パンジャ)と結婚した英親王とは異なり、韓国女性と結婚したが、 日本の皇族と政略結婚をし、日本に帰化した長男を「息子とは思わない」反面、自分に良く似た次男イ・ウ公爵を偏愛したという。イ・ウ公爵は日本人との結婚を最後まで拒み、パク・ヨンヒョの孫娘パク・チャンジュと結婚した。
イ・ウ公爵は 10歳という年齢で日本へ留学し、日本陸軍士官学校に入ったが、朝鮮語を使い、酒の席では『荒城遺跡』を歌い、日本の要注意人物に上がったという。
彼が国内にいる時には、全羅道 (チョルラド )の農民が訪れ、日本軍がホナム平野に軍事道路を作り、何の保障もしてくれないと訴えたことがあった。
イ・ウ公爵はすぐに日本軍司令部に駆け込み、工事を中止せよと要求したが、拒否された。すると彼は拳銃を出し「公爵である私は、お前を殺しても監獄に行かない」と脅し、最終的には目的を達成したという。一見、権力乱用のように見えるかも知れないが、これは日本が与えた貴族特権で、日本を侮辱し、朝鮮人の怒りに訴える 行動だった。
イ・ウ公爵は、陸軍士官学校朝鮮人同期であるイ・ヒョンソクに、「日本の軍服を着ていることが恥ずかしい。堂々と韓国の軍服を着られる日まで待て」という手紙を送ったりもした。彼はまた、日本軍参謀という職位を利用し、トップシークレットを独立軍に送り、後援者的な役割を果たしたが、具体的な記録は発見されていない。ただ、日本が彼を広島の教職参謀として発令を下したことにより、彼の独立軍関連説が、説得力のあるように受け止められる。
何ヶ月間も転出を拒んでいたイ・ウ公爵は、結局、 1945年に広島へ向かい、出勤初日に米国が投下した原子爆弾に被爆し、東京に移ったあと、死亡した。彼が 33歳の時だった。
明成皇后弑害事件をはじめ、純宗が阿片が入った“毒茶事件”で知的障害を抱え、亡命を極秘裏に準備した高宗が急逝するやいなや、毒殺説が広がるなど、大韓帝国皇室の命綱が危うい時代であったことから、イ・ウ公爵の死にも日本が関わっているという説があるが、これもまた確認されてはいない。
皇族のほとんどは身分を隠して生活

▲日本留学時代のイ・ウ公爵(前列右から 2番目)、一番左が義親王の息子ゴン
独立(光復)はしたものの、自らを王家の子孫と考えるイ・スンマン初代大統領のけん制により、英親王と義親王は人々の記憶から忘れ去られたまま、亡くなった。
中でも、義親王は 1955年死亡当時、ひどい栄養失調状態だった上、私有地に仮埋葬されるなど、一国の皇族とは思えない死を迎えた。
“オルチャン王子”イ・ウ公爵は、死ぬ前に息子チョンを残した。義親王の孫であるイ・チョン( 67)さんは、静かに暮らすことを希望し、宗親会などにも一切関与しないと知られている。
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